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トップページ > トッパンホールアーカイブ > 音楽文化学 Vol.2 ウィーンの街並みのさざめきを音にしたシューベルト

音楽文化学

Vol.2

ウィーンの街並みのさざめきを音にしたシューベルト



 そこそこよく知ったつもりの演奏家がある日突然変貌したかのように凄い演奏を聴かせる。これは、コンサートやCDを聴く大きな醍醐味です。今年のGWに行われた「ラ・フォル・ジュルネ」には、そうした意味でどうしても気になるコンサートがあって会場に足を運び、結果的に、期待を遥かに上回る演奏が私を迎えてくれました。それは昨年CDで聴いて、目から鱗がおちるように驚いたクリスティアン・ツァハリアスが弾くシューベルトのイ長調D959のソナタの演奏会。EMIの主力ピアニストとして数多くのCDを録音していたツァハリアスの演奏は、実演、CDを通じてこれまで何度か聴いては来ましたが、本当のことを言うと、これまでそんなに強い感銘を受けた記憶はありませんでした。しかしこの2006年に録音されたCDには、心底びっくりさせられました。これは素晴らしいシューベルトです。この大曲を弾くという構えたところがまるでなく、肩に力がまったく入っていない。その脱力感がとてもいい具合。せせこましくも騒々しくもなく、まるで美しい一遍の絵巻物を見るかのように静かに豊かな時がゆったりと流れる。その上あの第2楽章の長いアンダンティーノでは、諦念と絶望の透徹した哀しみが過不足なく表現されている。そして全編を流れる暖かいうたごころ! シューベルトの音楽は、時にベートーヴェンに優るとも劣らない劇性が秘められ、そのデモーニッシュな魅力でも他者を圧倒する側面も持ってはいますが、なんといっても彼の最大の魅力と特徴は、その限りなく美しく優しい旋律にあります。その「うたごころ」が欠如しては、シューベルトではなくなってしまいます。いうまでもなくシューベルトは、ヨハン・シュトラウスらと並んで、「音楽の都ウィーン」が生んだ数少ない生粋のウィーンっ子作曲家です。彼の音楽には、ウィーンの街並みや生活のにおいが息づき、詰まっています。ウィーンにいると否が応でもそれを実感し、それこそがまさに「シューベルトだ!」と感じるのですが…。

 そうした思いで近年のシューベルト演奏を聴くと、必要以上に立派な意匠の威風堂々たる演奏や、縦の線のきっちりあった正確無比な演奏に、戸惑いを覚え大きな哀しみに包まれます。彼は本来もっとローカルで、いい意味でだらしなく、いい加減さと味わいを持つ作品のはずです。近年はやりのこうした演奏は、まるで「京ことば」の美しさや、江戸っ子の「べらんめえ調」の気風のよさを、あたりさわりのない標準語におきかえたようなもの。なんとも味気なく、人肌のぬくもりが失われてつまらないことこのうえない。しかし今回のツァハリアスの演奏は、丹念に精を込めてシューベルトの心の襞を音にしていったような手仕事感に満ちていて、日頃の溜飲を一気に下げる稀有の名演でした。

 会場のお客さまも、この淡々とした悠久な時間のながれに身を任せ、ステージと一体感のある素敵な時空間を形成していて、わずか3年余りの間にラ・フォル・ジュルネの大きな成熟を見る思いでした。

西巻 正史
トッパンホール 企画制作部長