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アーティストボイス

神々しい完成度に潜むバッハの人間性
ベアトリーチェ・ラナ トッパンホールプレスVol.88より

ベアトリーチェ・ラナ インタビュー

Beatrice Rana
取材・文 後藤菜穂子
── ご両親もピアニストだそうですね。ピアノは何歳から?

ラナ(以下R): ええ、音楽一家に育ちました。妹だけは違う楽器を選び、チェリストになっています。
 6 ヶ月の頃に母の膝の上でピアノを弾いたホームビデオが残っていますが、実際に習い始めたのは3歳の時で、母のお弟子さんが地元レッチェで新しく開いたヤマハの音楽教室に通い始めました。8歳からは近郊モノーポリにあるニーノ・ロータ音楽院に通い、すばらしいピアニストであるベネデット・ルーポ先生に師事しました。そこでは対位法や作曲も学びました。その後ルーポ先生より外国で学ぶように奨められ、18歳からはドイツのハノーファー音楽大学でアリエ・ヴァルディ先生に学びました。

── 高校までは普通科に通われたのですよね?

R: はい。高校は理系でした。理由は数学が得意だったので、宿題をさっさと片付けて、ピアノを練習する時間がたくさん取れるから(笑)。けっこう成績はよかったので、学校の先生たちは私が一般大学に進学しないことを残念がってくれました。でも学問の道に進んでも、音楽ほど幸せになれないことはわかっていましたから、迷いはありませんでした。

── いつ頃ピアニストになろうと決めたか覚えていますか?

R: 物心ついた時にはもうピアニストになろうと思っていました。

── 迷いや挫折はありませんでしたか?

R: 辛い時期もありましたが、家族がつねに支えてくれました。両親は特に私にピアニストになってほしいと思っていたわけではなく、音楽はためになるので学んでほしいけれど、そのあとは自分の好きな道に進みなさい、と言ってくれていました。
 いちばん辛かったのは17歳の時で、コンクールでの失敗が重なってどうしてよいのかわからず、混乱の時期でした。それでもピアノをやめようと思わなかったのは、私は一日以上ピアノから離れていられないからです。とにかくピアノがないと生きられないのです。
 幸い、その翌年にモントリオール国際ピアノ・コンクールに優勝でき、自分の演奏が評価されたことで自信がつきました。

── 今回のリサイタルでは《ゴルトベルク変奏曲》をお弾きになります。この曲を初めて弾いたのはいつですか?

R: 全曲を公の場で弾いたのは去年ですが、8歳の時に主題である〈アリア〉を演奏会で弾いて以来、ずっと勉強してきました。子どもの頃からバッハを弾くのが大好きでした。
 《ゴルトベルク変奏曲》は私にとっても特別な曲ですが、聴き手にとっても実りのある体験だと思います。舞台で弾いていても聴衆が非常に集中しているのを感じます。忙しい現代において、1時間半じっと一つの曲に聴き入るというのはなかなかできない体験だと思います。スピリチュアルな体験と言ってもよいかもしれません。

── CDもリリースされますが(※)、レコーディングはいかがでしたか?

ベアトリーチェ・ラナ
Photo:N.Gotoh
R: とにかく集中力を要しました。その前のパッパーノとサンタ・チェチーリア管との協奏曲のレコーディングの時は多くの人が関わっていたので賑やかでしたが、今回はスタジオに一人きりだったので、まったく違う雰囲気でした。数日間、集中力をどう維持するかが最大の課題でした。
 録音の場合、やはり完璧でないと満足できないものですが、でもそれを求める中で、情緒面で失われるものもあると思うのです。なので、完璧さよりも情緒面を優先すべき場合もあると考えています。難しいバランスですが。
 さらに私の解釈も刻々と変化しているわけで、録音した時と今では違いますし、日本で演奏する時にもまた変化しているでしょう。逆にそうでなければおかしいと思います。録音とはある時点での解釈の記録なのですから。

── モダン・ピアノでバッハを弾くことについてはどうお考えですか?

R: 一言でいえば妥協です。チェンバロとピアノはまったく異なる楽器なので、ピアニストはチェンバロからインスピレーションを受けることはあっても、その音を再現することはできません。チェンバロを弾いたこともありますし、その音も大好きですが、私自身はピアノのほうがしっくりきます。
 テクノロジー的にはピアノのほうが進化していて、チェンバロより多くのことができるようになっています。私たちピアニストはそうした楽器の改良点を利用して、バッハの音楽を弾くことができます。たとえば、チェンバロの弱点の一つは音色が均質だということです。それに対して、ピアノなら音色の違いを利用して対位法をよりはっきり出すことができます。もちろん、ふさわしい様式感で弾いた上でのことですが。

── 学生時代に、歴史的な演奏習慣についても学びましたか?

R: もちろん学びました。多くの人はバッハを拍節的に厳格な音楽だと思うかもしれませんが、実はバロック時代の演奏法ではかなりの自由が許されており、とりわけ拍節の取り方や「ルバート」―もちろんショパンのようなルバートとは違いますが―がとても大事なのです。
 私は音楽院で作曲も8年間勉強したので、課題で対位法の曲も作曲しました。対位法を学ぶことで、音楽は縦の線だけではなく、横の線も考えなければならないことがわかります。すなわち、いくつもの声部が自由に動いていて、人間が会話を交わす時のようにそれぞれの声部が自分を主張することができるのです。それが、私がバッハの音楽が好きな理由の一つです。

── ラナさんは数学が得意とおっしゃっていましたが、バッハの知的な面に惹かれるのでしょうか?

R: いえ、むしろ彼の音楽はスピリチュアルで情緒的だと思います。もちろんきわめて知的な音楽であることはわかっていますが、私が好きなのは人間的な面です。神々しいほどの完成度の中に人間性があるのがバッハだと思います。

── 尊敬するピアニストについて教えてください。

R: 好きなピアニストはたくさんいますが、子どもの頃に最初に憧れたのはアルゲリッチでした。最近ではツィメルマン、アラウ、ルービンシュタインらの演奏にも惹かれます。

── 郷里のレッチェ(イタリア南部プーリア州)はどんな街ですか?

R: 地図を見ていただくとわかりますが、レッチェは「長靴のかかと」として親しまれています。海に近く、気候は温暖で、ワインの産地としても知られています―赤も白もあって、とても風味の強いワインです! 街は美しいバロック建築でも有名です。18歳までそこで育ち、今はローマに住んでいます。

── 何か趣味はお持ちですか?

R: ファッションや料理、読書は好きですが、今はピアノにすべてのエネルギーを注いでいるので、本格的な趣味は持っていません。空いた時間は家族や友人たちと過ごしています。

── 来日は何度目ですか?

R: 三度目です。2012年に浜松国際ピアノアカデミーに参加し、2015年には東京でのラ・フォル・ジュルネで協奏曲、室内楽、ソロと演奏しました。大好きな国なので、再訪をたいへん楽しみにしています。
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インタビュー中、ラナさんの新人離れした落ち着きはどこから来るのだろう、と何度も思った。両親とも音楽家という恵まれた環境に育ちつつも、この世界の厳しさも理解して強い決意でピアニストの道を歩んでいるからだろうか。今回ウィグモア・ホールで聴いた彼女の《ゴルトベルク変奏曲》も想像以上に成熟した解釈で、お話をうかがっている時と同じく豊かな知性と情緒を感じた。この前途有望なピアニストの現在を、ぜひ聴いていただきたいと願います。
2017年1月 ロンドンにて
(ごとう・なほこ/在ロンドン・音楽ライター)
※《ゴルトベルク変奏曲》ワーナーミュージックジャパンより3/8発売
〈エスポワール スペシャル 12〉
ベアトリーチェ・ラナ(ピアノ)
2017年4月25日(火) 19:00
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988 ※当初発表から変更になりました。
5,000円 / 学生 2,500円 全席指定