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インタビューInterview

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原点をみつめて
ロシアへの尽きぬ想いを刻む
 

前橋汀子 Teiko Maehashi

聞き手=
西巻正史

2012年、暮れ——。演奏活動50周年記念ツアー中の前橋汀子さんに、ご自身の音楽の原点、幼い頃よりの憧れの地、“ロシア”への尽きぬ想いと、留学時代の貴重な経験を語っていただきました。


今回の公演のテーマは“ロシア”。前橋さんの原点をグッとクローズアップした企画にしました。

ロシアは、まさに私の原点です。ここしばらく、演奏活動50周年の記念ツアーで日本各地をたくさんお訪ねしているのですが、場所を問わず、どのコンサートに臨むときも不思議と、ヴァイオリンをはじめた頃や、とりわけ初めての留学先だったロシアでの3年間を思い出します。

その後はほとんど足を運ぶ機会がなかったのですが、多感な年齢を過ごしたロシアでの深く強い印象や得がたい経験の数々は、さまざまな部分で現在の私に繋がっている実感があります。もう一度、あらためてロシアの作曲家、作品に向き合いたいと強く思っていましたので、この公演が実現して本当に嬉しく思っています。

ロシアは当時共産主義下のソビエト連邦、「鉄のカーテン」の向こう側と言われていました。東西冷戦のまっただなかに10代の少女がひとりで渡るには、相当な信念と勇気がいったと思います。

でも、出発前には何の迷いもありませんでした。幼い頃から、叶えたいと願っていた夢でしたので

最初のきっかけはやはり、小野アンナ先生ですか。

そうですね。ヴァイオリン自体は幼稚園の情操教育ではじめたのですが、5歳のときに、せっかくなので続けようと考え、たまたまご紹介いただいたのがアンナ先生でした。先生はロシア革命を逃れて日本へいらした方で、ペテルブルク音楽院の卒業生でした。私がのちに留学するレニングラード音楽院です。来日当初は、周囲にまったくクラシック音楽の存在が感じられず非常にショックに思われたそうですが、それで、ご自身が学んでこられたことを日本という新天地でなんとか活かしたい、と真剣に考えて指導にあたっていらしたんですね。ほんの子どもだった私にもとても真摯に、厳しく教えてくださいました。素晴らしい先生でした。

先生についてしばらくすると日本とソビエトの国交が正式に回復して、その少し前くらいからロシアの音楽家が来日するようになりましてね。先生はそのたびに彼らを自宅に招いて、旧交をあたためるかたわら、私の演奏を聴かせました。きっと、ご自身が日本でなさっていることを彼らに知って欲しかったのでしょう。ロシアの作品もよく弾きましたが、タネーエフやグリエールなど、当時市販の楽譜がなかった曲は、大変な作業だったでしょうに母が写譜してくれていました。

先生のご友人がたは、きっとすごい顔ぶれでしたね。

ヴァイオリニストでは、のちに指導していただくことになるミハイル・ワインマン先生、それにレオニード・コーガンやヴァレリー・クリモフそれからダヴィッド・オイストラフ。

オイストラフ! リサイタルを聴きにいらしたんですよね。

まだ小学3、4年生だったと思いますが、母に連れられて日比谷公会堂へ行きました。楽器と身体が一体化したような朗々とした演奏に、まさに大きな衝撃を受けて。それで、ソビエトへ行けばきっとあんなふうに弾けるようになるんだ、と信じましてね。それからソビエトで勉強することが夢になったんです。中学にあがるとさっそくロシア語の勉強を始めたんですよ。具体的な見通しはまだ何もなかったのに(笑)。

夢に対する一途さに、今につながる前橋さんらしさを感じます。高校2年生でついに夢を叶えられるわけですが、周囲の反対はなかったんでしょうか。

不思議と誰からも反対されませんでした。ただ、留学前に学んでいた桐朋の斎藤秀雄先生から「とにかく人と競争するな」というアドバイスがあったんです。私はいよいよ夢をつかんで希望に胸膨らませていましたから、何か水をさされたような気持ちになったりもしたのですが、先生は、あまりのレべルの違いに私がショックを受けるに違いないと見通して心配してくださったんですね。行ってみたら実際そのとおりでした。

入学は、レニングラード音楽院の創立100周年の記念の年だったんですね。

そうです。記念年ということで、私は共産圏以外から初めて受け入れられた留学生でした。 ですが、意気揚々と行ったはよかったんですけども、すぐに“とんでもないところに来てしまった”と思いました。とにかく寒い、食べものも思うようにならない、寮では慣れない集団生活と、普通に生活することがまず大変。でもやっぱりなにより、演奏技術など音楽についての全般的なレベルがとてつもなく高かったんです。

なのに、音楽院と言いながら練習場所も充分にない環境で、それも驚きでした。調律されていない歯抜けのピアノを使うのに、みんな朝早くから必死で練習室を押さえたり、ピアノが必要じゃない楽器なら階段の踊り場や、困ればトイレですら場所取りするような状態だったんです。「今日、どのくらい練習できた?」というのが学生の合言葉でした。そんな状況下でしたが、日本からは船で1週間かけてやっとたどり着くようなところで、電話も全然通じない。母に手紙を書いても返事は1ヵ月以上先で、そのころには自分が何を書いたのかもう忘れていました。外貨規制が厳しくて、ちょっとお小遣いを送ってもらうのでも何段階も手続きがあるような国で、何もかもが簡単ではなく、帰りたくても帰れない。ひたすら練習することで日々を過ごしていた気がします。

大変な時代でしたね。

でも、今となっては懐かしいですね。あれから50年以上経って“ソビエト連邦”という国はなくなってしまいましたが、芸術的には本当に素晴らしい時代でした。当時は、オイストラフ、コーガン、ロストロポーヴィチ、ムラヴィンスキー、ギレリス、オボーリン、リヒテル等々、今でも語り継がれる伝説の音楽家たちが最盛期でしたし、音楽以外でも、さまざまな分野での教育システムが見事に整っていた国でした。そんな時代に、彼らのなかで生活しながら音楽を学んだ経験は本当に貴重でした。

たとえばワインマン先生のレッスン。チャイコフスキーのコンチェルトを弾くのに“どうやったらもっと早く指が回るかしら?”ということばかり考えていた私に、「汀子、エフゲニー・オネーギンのオペラを観たか? オネーギンの手紙の場面がわからなければコンチェルトの第3楽章は弾けないよ。」と。すぐにキーロフ(現マリインスキイ)劇場に観に行って、原作のプーシキンの戯曲も読みました。技術だけではなく、その作品の背景にあるものを理解しないと音楽にならないんだ、という本来の姿を教えてくださった。エルミタージュ美術館など、身近に“本物”がある幸運な環境のなか、音楽、文学、美術などはすべて繋がっているという、音楽家が基本とすべき大切な心得をロシアで初めて学びました。その意味では、実に恵まれた3年間だったと思います。

今回は、そんな留学時代を映してのロシアン・プログラムです。

チャイコフスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ。それぞれの時代を象徴する作曲家3人のピアノ・トリオを演奏します。ロシアでは、大切な人が亡くなるとピアノ・トリオが書かれるならわしがあるようですね。

チャイコフスキーとショスタコーヴィチの作品はそれぞれ、親友の死に際して書かれ、彼らに献呈されています。ラフマニノフの第1番は、チャイコフスキーの《偉大なる~》を手本にしたと言われていて、今回は弾かれませんけども、第2番のほうはチャイコフスキーが亡くなったときに書かれたものですね。

ラフマニノフは、チャイコフスキーの薫陶を受けた作曲家ですものね。今回の曲、私にはオネーギンを髣髴とさせる手ざわりがあって“これはまさにチャイコフスキー!”というようなメロディーが、随所に感じられます。ラフマニノフが、いかにチャイコフスキーの影響を強く受けていたのかがよくわかる作品です。

ショスタコーヴィチは私の留学時代にも活躍していた人なので、特に想いが強いかもしれません。黒い鞄を下げて歩く姿を時々街で見かけたものでした。コンサート会場では、聴衆と同じように冬の寒さのなか行列に並ぶ姿に、謙虚な人柄を感じたり。彼は音楽を通して自分の生き方、想いや主張を伝えた人。ピアノ・トリオでは何度も何度も、っていう繰り返しがあるでしょう。あれはまさに、あの時代の民衆の叫びです。ロシア人も世代が変わって、国も変わって、今では私の留学時代の話がまったく通じないことも少なくありません。今回共演するイーゴリも、ショスタコーヴィチの作品は全部弾いているような室内楽の達人ですが、私よりだいぶ若い。ショスタコーヴィチが描いた当時のソビエトの光景は、私のほうがずっと鮮明に思い浮かべることができます。たとえば彼の時代、街のいたるところで鳴っていたであろう教会の鐘。ほかのヨーロッパの鐘とは異なるロシアの鐘の独特の響き。あの心の奥深くまで響く、底知れぬ憂いを帯びた音色は、トリオの第3楽章に描かれています。当時、教会は弾圧を受けていましたから、ショスタコーヴィチが封じ込めていた想いもそこに映されているのでしょう。時代の熱、民衆の叫び、鐘の音自分の実体験に寄り添いながら、演奏に臨もうと思います。

最後はチャイコフスキーで締めくくりますが、実は彼は、レニングラード音楽院の第1期生。100期生の私はいつも、アウアー教室と呼ばれる24番教室でレッスンを受けていたのですが、由来になっているレオポルト・アウアーは、ハイフェッツ、ミルシテイン、ジンバリスト、エルマンといった多くの名だたるヴァイオリニストを輩出した大変な名指導者で、チャイコフスキーがヴァイオリン・コンチェルトを捧げた音楽家としても知られています。楽院生の誇りを感じながら、由緒ある歴史の連なりにちょっと自分を置いて弾いてみたいと思っています。

“弦のトッパン”のお客さまにも、手ごたえを持って聴いていただける非常に意欲的で濃密な内容です。

どの作曲家もロシアへの深い愛情をこめて作品を書きあげていて、私のなかではそれぞれが“=(イコール)ロシア”という存在です。4月14日は、私の音楽家としての礎をつくってくれたロシアへの愛と感謝をこめて、ステージに立ちたいと思います。

〈デビュー50周年特別企画~ロシアへの想い、ロシアの思い出〉前橋汀子(ヴァイオリン)

2013/4/14(日) 17:00

パヴェル・ゴムツィアコフ(チェロ)/イーゴリ・ウリアーシュ(ピアノ)

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