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公演情報Concerts

音楽評論家・片山杜秀氏が語る公演の聴きどころ

コンスタンチン・リフシッツはベートーヴェンもショパンもシューマンも現代の新作も弾く。レパートリーは広大である。そして、その核には“音楽の父”バッハが居る。17歳のとき、モスクワのグネーシン音楽学校の卒業演奏で弾き、大反響を巻き起こしたのはバッハである。《ゴルトベルク変奏曲》だった。ただちにレコーディングもされ、リフシッツの名は広く世界に届き、今日のキャリアにつながった。むろん、その後もバッハを弾き続けている。しかも深く徹底的に。彼こそは現代を代表するバッハ弾きであろう。日本でも名演を重ねてきた。

バッハの演奏というと、このオルガンで、そのチェンバロで、あのバロックヴァイオリンで奏でなければ、作曲家の真の魅力は伝わるまいと考える立場がある。リフシッツのバッハへの関心は、そうした古楽的方向とは違うだろう。バッハの紡いだ音の秩序の値打ちは、特定の時代の楽器や演奏様式に左右されないはずだ。時代から超然とした宇宙。音の表現力の無尽蔵な、現代の高性能のピアノでこそ取り組めば、その分、大きく帰ってくる音楽。リフシッツにとってのバッハとはきっとそのようなものなのだろう。だからと言うべきか、気に入った曲だけを抜いて弾くよりも、バッハの総体をつかまえたくてうずうずしているような俯瞰的プログラムを好む。バッハの鍵盤のための協奏曲なら全曲まとめて演奏しようとする。《フーガの技法》や《音楽の捧げもの》のような、必ずしも鍵盤音楽というわけではないだろう、しかも大規模で巧緻で抽象度の高い作品を、ひとりで、ピアノで、ときには多重録音を用いてさえ、弾き切ることにこだわる。今回だと、バッハの遺した鍵盤のためのトッカータの7つ全部を一遍に弾くところにも、リフシッツの全体性や完全性への執念を感ずる。

リフシッツの写真2014年6月10日公演より ©大窪道治

そんなリフシッツが、バッハにショスタコーヴィチを組み合わせる。来るべきものが来た気がする。何しろバッハはBACHで、ショスタコーヴィチはDSCH。音名の話である。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シはドイツ語の音名だとC・D・E・F・G・A・H。シのフラットの音にはBを当てる。よってBACHという綴りは、半音階上に連続する4つの音、A・B・H・Cを並べ直し、短2度(半音1つ分)下がり、短3度(半音3つ分)上がり、また短2度下がる音型を作る。バッハは《フーガの技法》でこの音型を恐らく自覚的に使った。他の作品でも用いているのかと思われる例が見つかる。が、それほどこだわっていたわけでもなさそうだ。にもかかわらず、バッハにBACH音型はよく似合う。隣接し合う4つの半音の枠にみっしり詰まったその音型は、半音階的な音楽の秩序ある宇宙を、ミクロからマクロへと論理的に育てる種子としての象徴性も実用性も、有するからである。

するとDSCHは? ドミートリ・ショスタコーヴィチという姓名のキリル文字を、名はイニシャルだけにしてラテン文字に置換すれば、たとえばドイツ語風だと、D.Schostakowitschとなろう。頭の4文字を取り出すとDSCH。これも音に変換出来てしまう。ただしSはEs、つまりミのフラットに読み換える。DSCHという名の綴りは、半音階上に連続する5つの音、H・C・Des・D・Esから、真ん中のDesを抜いた残る4音によって、短2度上がり、短3度下がり、そこからさらに短2度下がる音型を成す。BACHとCHがダブっているうえに、短2度と短3度という音程で出来ているところも重なる。BACH音型とDSCH音型は、単に作曲家の名から導かれたということにとどまらず、半音階上にみっしり詰まって、半音階的音楽を形づくる種子として機能しうる点でも同じ。ショスタコーヴィチはそういうDSCH音型を、とても似ているBACH音型を意識しながら、特に第二次世界大戦期から、よく用いるようになった。

そもそもショスタコーヴィチはバッハに子供の頃からよく馴染んでいた。ピアノの稽古を通じて。ショスタコーヴィチは結局、作曲家になったけれど、優れたピアニストでもあった。1919年、13歳の年にペトログラード(1924年にレニングラードと改称)音楽院に入り、はじめピアノ科で、ついで並行して作曲科でも学び、ピアノ科の方は1923年に卒業している。バッハやリストを得意とし、ベートーヴェンのソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》、あるいはシューマンやプロコフィエフの協奏曲もレパートリーにした。1927年にワルシャワで開かれた第1回のショパン・コンクールにも出場。本選に残り、ショパンの協奏曲を弾いている。順位は付かなかったけれど。そのときの批評が残る。ショパンらしい情緒を求めず、その代わりすこぶる対位法的に分析的に弾いたという。恐らくバッハ的なショパンだったのだ。二十歳の年のショスタコーヴィチはそのようなピアニストだった。

では作曲家としてのショスタコーヴィチはどうか。1920年代のフランスやドイツ・オーストリアのモダニズムがレニングラードにも押し寄せ、若きショスタコーヴィチはその虜となった。ところがそのモダニズムはバッハとの親近性が強かった。当時のストラヴィンスキーは「バッハに還れ」と主張していた。なぜバッハか。第一次世界大戦やロシア革命の経験は、19世紀ロマン派の育てた、教養市民の個の内面を微に入り細を穿って情調豊かに語るような音楽のスタイルに、退場を宣告した。代わって新しく思い描かれたのは、余計な装飾を捨て、構造や運動の骨格をむきだしにし、線的・機能的・対位法的に推進されてゆく、勤勉実直かつ純粋で無駄なく精密な音楽のありようである。ビジネス・ライクな企業組織や官僚組織や工場組織が技術的合理性を極めて行く20世紀に相応しい芸術とは、そのようなものに尽きてくると、あらゆる文化芸術の分野で強く思念された時代であった。そこで新しい音楽のモデルとして崇拝されたのがバッハだった。1920年代のモダニズムの主潮は新即物主義ないし新古典主義であり、それはバッハを最大のアイドルとする新バロック主義に通じた。ストラヴィンスキーの「バッハに還れ」とはそういうことだ。ショスタコーヴィチは実作に於いてはストラヴィンスキーよりもヒンデミットの諸作品を通じてバッハの今日への応用法を学習したのではあるまいか。

とはいえ、バッハのBACH音型の象徴する秩序からショスタコーヴィチのDSCH音型の表現する世界への流れは、素直に語れないところもある。バッハは、個人の内面を語ることを第一義とする時代の音楽家では、まだ無かった。むしろ神に仕える音楽家だった。バッハが、フーガやカノンといった、相似た声部があくまで対等の重みを持ち、誰が主でもなく従でもなく、折り重なり増殖し、音の巧緻な絡み合いを演出してゆく形式に託したのは、神の造り給うた完璧な秩序の均衡美の表現、あるいは教会に調和して集う信徒の共同体の平等性の表現であったろう。そこには恐らく、個人が信徒の集団なり神の秩序なりに含みこまれて、それだけで心の底から充足できるので、後のロマン派のように勝手な一人語りをする必要性が生じぬという、前近代的な幸福な前提がまだ生きている。けれど、20世紀に召喚されたバッハに、ストラヴィンスキーやヒンデミットが新しく付与した性格は、だいぶん違うのではないか。神なき時代どころか、人間的な物すら信じにくくなった第一次世界大戦後の話なのだ。その時代のヒーローとしての新しいバッハは、ひたすら合理性や機能性や実用性を追求するハードボイルドなドライさの表現としての、甚だ形骸化したバッハと言えるのかもしれない。バッハから信仰という背骨を抜いたらどうしてもそうなるだろう。悲しい歴史の運命である。

さらにショスタコーヴィチの場合は、彼の生きた国に特有の強烈な事情が加わる。ソ連という全体主義的・権威主義的社会体制の中で、自由な個人のありようが積極的に抑圧される。個人は共産主義社会という完璧な筈の秩序に含みこまれて、それだけで心の底から充足できる筈なので、根本的な矛盾や葛藤を感じることもない筈だ。つまり不自由を感じないことになっている。だから改めて自由を求める必要もない。個性的な表現も原則として不要である。現状肯定のための安全で類型的な表現のスタイルさえあればよい。その建前から外れるとよりよく生きられなくなる。でも矛盾や葛藤を感じる個人は現実に居るのだ。ショスタコーヴィチという人間だって居るのだ。だが赤裸々な自分語りは禁物。たとえば、近代的個人の生々しい感情を表す古典派・ロマン派よりも前の時代のバロック音楽風、バッハ風の形式美の中に身をひそめながら、それからたとえば、本音の見えにくい、道化師風の諧謔や衒学者風の韜晦や役人風の決まり文句を、パターン化されたトランプのカードのように繰り返し並べながら、でもやっぱり個人は居るのだと不機嫌に呟く。その最低限の表明がDSCH音型の織り込みなのではないか。

BACHは個として叫ぶ必要のない幸福な共同体の中で、DSCHは個として叫ぶ権利を与えられぬ不幸な社会の中で鳴る。しかし、またこのふたりほど音楽の純粋な構造美を信じた作曲家はそうそう他には居るまい。2つのコンサートはバッハとショスタコーヴィチの近さと遠さを教えるだろう。

片山杜秀


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