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公演情報Concerts

音楽評論家・長木誠司氏が語る公演の聴きどころ

〈エスポワール シリーズ 12〉となる今宵の嘉目真木子によるリサイタル。このシリーズでは3回目となるリサイタルで、嘉目はついにドイツ・リートの世界に踏み込んだ。
とはいえ、本日のプログラムはシューベルトやシューマンといったドイツ・リートの王道からはあえてはずれている。その意味で嘉目らしい凝ったものになっていると言えるだろう。日頃からリートを聴き込んでいるひとでも、本日初めて耳にする曲は少なくないだろうし、今後もこのような選曲を、少なくとも日本人ソプラノ歌手が多く取り組むとも思われない。その意味で非常に貴重な一夜である。

公演画像1Vol.1―日本歌曲(2019年4月13日公演)より
©大窪道治

嘉目の選曲は、20世紀初頭のドイツ・リート世界を俯瞰するようなものであり、いちばん「古い」マーラーの《リュッケルトの詩による5つの歌曲》はまさに20世紀幕開きの1901年に書き始められている。この時代のドイツ・リートは、シューベルトに典型的に見られるような有節リート、すなわち同型の韻律を持つ異なった詩節に同じ旋律を充てて歌っていく、反復性のある曲作り(1番、2番…というような)から離れていく。複数の詩節に同じ(ような)旋律を充てるにしても、ちょっとフシ回しを変えて変化させたり、あるいはピアノ・パートを変奏させて、よりポリフォニックに複雑にしたり、あるいは詩節同士の同型の韻律をあえて無視して、まったく異なった旋律で応じたりというように、詩のリズムよりもむしろ語られている内容に即して自由に音楽を当てはめながら、当意即妙に情感を込められるようなものになっていた。

その系列は、今回マーラーやR.シュトラウス、そしてツェムリンスキーやベルクに聴かれるだろう。ことにシュトラウスの歌曲は、かつてシューベルティアーデに代表されるような内輪の会で歌われていたようなピアノ伴奏付きリートの世界を遙かに離れて、演奏会用の、それもかなり大きな演奏会場を意識したような、ほとんどオペラのような巨大な情感を歌い上げる作品になっている。

公演画像2Vol.2―その国に生きて(2021年3月13日公演)より
©大窪道治

一方、シェーンベルクは詩を全部読まずとも、その冒頭だけを読んだ際に得た直感や陶酔感で、歌曲全体を一気に作曲するという方法をひとつの主義として唱えていた。創ったあとで見返しても、まったく齟齬がなかったというのがその主張だ。シェーンベルクはこの方法を、シュテファン・ゲオルゲの詩による《架空庭園の書》作品15で典型的に取り始めたが、ちょうど音楽が無調になるこの時期、詩の内容、個々のことばは音楽を縛るものではなくなっていった。詩の内容と音楽は、必ずしも情感だけで結びつくものではなくなるのである。今回も、まさにゲオルゲ詩によるシェーンベルクの作品14-1やリルケの詩による《浜辺で》にその方法を聴き取ることができるだろう。

同じことは、やはりリルケの詩集『マリアの生涯』に付曲していたヒンデミットにも当てはまる。このリルケの詩集も、正統なカトリックによるマリア観からだいぶはずれたものだったが、今回採り上げられるヒンデミット歌曲の詩人シレジウスも神と人間の本質的な一致を唱えた神秘主義者として、カトリックのなかでも異端的な要素を持つ。そのどきりとするような詩行にヒンデミットは劇的な音楽を付けているが、かならずしも個々のことばに即しているわけではなく、むしろ音楽的な形式面でも凝っているピアノ・パートを含めた、全体的なイメージが先行している。

20世紀初頭のドイツ・リートが持っていたふたつの大きな傾向、それを今夜は存分に楽しんでいただきたい。それに、シュトラウスの作品27の4曲が続けて聴かれるというのも珍しいのだから。

長木誠司


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