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インタビューInterview

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青年の哀歓を通して、現代的テーマに肉薄する トッパンホールプレスVol.82より

クリストフ・プレガルディエン(テノール) Christoph Prégardien

ミヒャエル・ゲース(ピアノ) Michael Gees

文学と音楽が高度に融合した得難いジャンル、リート。かつては日本でも多くのコンサート、CD等でよく聴かれましたが、フィッシャー=ディスカウ、ヘルマン・プライら名手なきあとは後継がなく急速に廃れ、詩自体が読まれなくなる時代の潮流にあっては、一気に存在感を失っていきました。
その復権をめざしてトッパンホールが2008年にスタートさせたのが、〈歌曲(リート)の森〉。当時は、低迷する歌曲人気に集客の不安を抱えながらも、名手不在の空白から一転、熱意を持ってリートに取り組む若手が次々に出現しはじめたことも見据えての挑戦でした。以来8年間継続的に公演を重ね、今ではホール主催コンサートの柱のひとつにまで成長。なかでもプレガルディエンは、歌曲の存亡をかけたシリーズテーマに共感してくれる力強い同志として、最初期から数えてすでに5回もの出演を重ね、パートナーのゲースとともにシリーズの主軸として、その発展に大きな役割を担っています。
昨年5月にも、連続する2公演で歌曲演奏史に残るほどの名演を聴かせてくれたばかりですが、一年を置かずの登板となる今回は、《水車屋の美しい娘》を託しました。“粉職人の若者が、修業の旅先で出会った水車屋の美しい娘に恋をする。しかし、狩人が現れて彼女を奪ってゆき、悲しみのなか立ち去る若者は小川に語りかけ、永遠の眠りにつく─”。全20曲を通して語られるこの物語は、年ごろの若者について普遍的な心理や佇まいを表す一方、実は、今日において深刻とされるもっと大きく広い意味での現代的テーマを孕んでいます。今年還暦を迎えたプレガルディエンと、もう少し先輩のゲースは、この作品をいまどう読み解き、どう演じてくれるでしょうか。賢者たちの解釈と舞台に期待が高まります。


クリストフ・プレガルディエン
 《水車屋の美しい娘》は、一般的には“青年の物語”として捉えられていると思いますが、私の解釈はそうではありませんでした。むしろ作品のなかに、人と自然とのつながりをより強く感じながら歌ってきて、それは今も変わりません。人間を取り巻く、いろいろな謎に満ちたパートナーとしての自然というものが、私にとっては重要なのです。作品が生まれた当時は現代よりも自然がもっと身近なもので、現代では失われつつあるその点に興味深さを覚えます。本来、人の生活、人生を自然から切り離すことはできません。そしてもうひとつ、人と人とのコミュニケーション、関係性の構築ということも作品の大きなテーマです。人は対話によって他者と関係を結びますが、《水車屋の美しい娘》の主人公である青年は、それができない。自分の心情や望みを、大切な相手に言葉で表現して伝えられません。会話不全ですね。本当は心を触れ合わせたい、関係を築きたいのに、感情を言葉にできず話しかけられない。想いを伝えられない。そこには確かに、非常に今日的なテーマを見ることができます。複数の世界、異なる価値観が出会うとき、相手と対話する用意、術がなければ、分かり合うことはできません。衝突など悲劇の危険が生まれます。いま世界の多くの場所で見られ、さまざまな摩擦や問題を引き起こしている、大変現代的で切実なテーマを作品のなかに見出すことができます。今回この曲を、ホールからのリクエストで取り上げますが、その点で、今歌うことには大きな意味があるでしょう。
 私は音楽家人生の当初から、絶えず歌曲に取り組んできました。偉大な先達プライやフィッシャー=ディスカウ、シュライアー等が、彼らの世代の聴衆とともに去り、歌曲を聴く層が失われて20年くらいの空白が生まれたなか、使命感も強くあったと思います。そういったこともどこか影響してか、ドイツでは今、学校の音楽の授業がほとんど削られるという大きな問題が起きています。子どもたちが声を合わせて歌う機会もどんどん減るなか、最近は演奏家自らが幼稚園などへ出向き、積極的に活動するようになりました。楽器でもいいのですが、“声”を使う歌は人間の本質的な営みに近く、音楽体験としてもっとも分かりやすいと思います。私自身も、ポップスやロック以外にもクラシックという音楽、選択肢があるんだよ、と伝える機会をつくっています。
 よいものを伝え続けていくためには“動く人”が必要で、伝統もそのなかで育まれると言えましょう。歌曲で言えば現在、トッパンホールが〈歌曲(リート)の森〉を継続しているほかに、シュヴァルツェンベルクでのシューベルティアーデ、ロンドンではウィグモアホールが定期的に歌曲公演を続けています。世界的にみて際立った取り組みはおそらくこの3つで、それぞれに主導するプロデューサーの見識があり、彼らが歌曲の魅力を信じてくれていて成り立っています。本場ドイツでも、シュトゥットガルトでのヴォルフ協会の長年の活動や、個人の熱心な取り組みが成功している例はありますが、文化大国を自称する国としては非常に悲しい状況です。
 トッパンホールでは毎回、非常にやりがいと意味のあるプログラムを歌わせていただき、そのときどきにしか得られない大きな手応えを客席からいただいてきました。今回のリクエストにも全身全霊でお応えして、みなさまの心に深く届く歌の贈り物ができればと願っています。

ミヒャエル・ゲース
 トッパンホールのお客さまには、特定のものに深く関心を持って“聴こう”という意思があり、叙情的共同体とでも名づけるべき個性を感じます。パラドックスな言い方かもしれませんが、私にとっては、舞台の上で気にせずにすむお客さまが理想的。例えるなら、基本的な考えの方向が同じだと議論などの無理をする必要がなくて、会話が自然に流れる感じです。思考の方向を共有する者同士の、一緒に動く空間みたいなものが大切で、コンサートにおけるお客さまとの関係もそれと同じじゃないかと思うのです。どこか同じ文化的素養を持つ人間同士が同じ場所に会し、叙情性であったり音楽性であったりをお互いに感じ合う。極端な話、演奏中に“ああ、同じ方向を見ている”という感触が得られれば、拍手はいらないとさえ思ってしまいます。拍手は無論素敵ですが、視線を交わすだけで届いていると分かるぐらいの共同体がそこに生まれたなら、本当に素晴らしい。トッパンホールではそれを感じることができます。
 プレガルディエンとは最初の共演が1984年でしたから、彼の人生の半分を、舞台で、稽古場で、食事の席でときには喧嘩もして過ごしてきたことになります。私たちはまったく性格が違って、そのことをお互いとても大切に思っています。日ごろの会話では摩擦もありますが、舞台の上がもっとも良い関係を築いています。相手が提示してきたものが自分では思いつかないことだったり、しかもそれがとても素晴らしい。そして私たちが、お客さまに最終的に提示している音楽は、意見が一致した結果ではなく、むしろ戦って築かれたと言うべきもの。音楽的なことも、単なる言い合いも含めてですが、融和的に平和に、要素を積み上げて構築したものではなくて、むしろ戦いと対立を経たからこそ生まれるものが、たくさんあると思います。
 私は《水車屋》の最後は死をもって終わるのではなく、死後も受け入れられて神の庇護のもとに置かれると解釈しています。これについてもきっと、プレガルディエンとさまざまな議論を重ねて、公演当日を迎えることでしょう。楽しみにお出かけください。

〈歌曲(リート)の森〉 ~詩と音楽 Gedichte und Musik~ 第19篇クリストフ・プレガルディエン(テノール)&ミヒャエル・ゲース(ピアノ)

2016/3/24(木) 19:00

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